新年のご挨拶

謹んで新年のお祝辞を申し上げます。

昨年も様々な出来事が御座いました。悪いこともあれば良いこともあり、一喜一憂の、例えば日本の四季のように、波のあった面白い年であったように思います。組織というものは、元来そんなもので、人の心、考えも様々で、また人の気分だって様々です。年間の行事が毎年決まって居る組織ならまだしも、その場のノリでゲームを楽しみ、またボランティアによって支えられる我々には、そう簡単に落ち着きというものは手に入れられないでしょう。しかし落ち着きがあるつまり、四季がないような平凡な年も面白くはないでしょう。仕事には落ち着きが欲しいですが、我々はゲーム、遊戯をやっているわけです。多少の波を感じられてもいいでしょう。まあボランティアをしている人たちは勘弁してくれと思われているかもしれませんがw 私も確かに、そのうちの一人ではありますw

さて本年も変わらず「皆で仲良く楽しむ」というTeam IBISS Serverの目的を達成するため、いつも通り邁進して参りたいと考えています。しかし、勘違いしてはならないのは、「皆で仲良く楽しむ」という目的を達成するため、全員の意見をなんでもかんでもすべて採用するということは困難ということです。そんなことをしてしまったら、組織としては終わりで、空中分解することは必然です。旧日本軍の海軍と陸軍のように、お互いが、あるいは誰しもが、自分勝手で好き勝手な行動をとっていては、優先順位において最大の順位となる、(目的)目標の原則は守ることができず、統一の原則は崩壊し、(戦力)集中の原則はどこ吹く風です。皆で仲良く楽しむという目的を理想論で終わらせてはなりません。この目的を達成するため、適宜適切な状況判断、幕僚活動による幕僚見積を行って、様々な意見つまり各行動方針の中から、一番正しい、最良の行動方針を選択し、これを指揮官の責任の下、決心しなければなりません。これこそが組織を正しく導く、今現在の人間社会において一番最良の方法であります。これを覆すならば、軍の状況判断プロセスとハーバード・A・サイモンの意思決定論を破壊できるだけの天才的論理が無ければなりません。これを行うことこそが、長として、決定者としての私の責任、義務であり、成功の責任も失敗の責任もすべて負うことこそが、指揮官の責務であります。だからこそ皆が指揮官を避けたがりますし、指揮官も指揮官で果たしてこの職についてよかったのかと苦悩することになります。指揮官は、それ相応の覚悟が無ければこなすことができない、こなしてはならない職であると、理論的にも経験的にも思うのであります。これは決心も同じです。決心するということは、すなわち全責任を俺が取るという決心でもあります。責任のあり場を曖昧にしたがる指揮官がいますが、皆に推薦されていやいや指揮官に抜擢されたならまだしも、自ら進んで指揮官に名乗り出たのにもかかわらず、この責任のあり場を曖昧にするすなわち、生産性のない議論を何度も繰り返して、自分の責任ではなく皆の責任であるようにしたがる指揮官は、早急にその職を辞したほうが良いでしょう。指揮官(上司)の中には「俺が全責任を取るから自信もって動け」と部下に諭すものがあります。これこそが指揮官としての基本であるが故の神髄なのです。指揮官はこの苦悩を受け入れなければなりません。指揮官とは、自己の利益よりも組織(他人)の利益を優先できる者であります。

幕僚は決して決心してはならない。これは米軍、自衛隊、フラー、クラウゼヴィッツなど、様々な研究者、軍が認めるもはや軍事界では常識のことであります。プロイセン式、すなわち圧倒的に独断を認めるプロイセン式を採用した日本軍は、幕僚までもが勝手に決心した所為で崩壊を引き起こしました。ミッションコマンド(分権的指揮)も、指揮の要訣も重要ですが、自主積極的な任務の遂行も、自主裁量の余地も、指揮官の責任より決心された組織決定の企図の中の範囲内でのみに、自主裁量を抑えなければなりません。組織決定から大きく逸れるような決心、例えば左に舵を切ると決心が下ったのにもかかわらず、右に舵を勝手に切るような独断専行は阻止しなければなりません。幕僚等は、左に舵を切るという組織決定の中で、よりよい方法はないかと自主裁量の余地の中で、自主積極的に任務を遂行するのであります。これこそが米軍が現在採用しているミッションコマンドの神髄であり、米軍よりも圧倒的に早く、旧軍の時代からこれを採用していた旧軍(旧軍のドクトリンは、前記のように幕僚まで独断してしまった問題あり)と自衛隊の真骨頂的ドクトリンです。

孫子の兵法に、「将、外にあっては、君命も奉ぜざるあり」というものがあります。この読み方、意味を間違ってとらえてはいけません。これは戦うという君子の決心を得て出陣した将に対して出された、細かい現場に対する君命は聞けない場合があるということです。つまり、ベトナム戦争時、大統領が直接ジャングル内の小隊長に対して命令を出した事例がそれにあたります。この際は、この孫子の兵法から現場の小隊長は大統領の命令を聞かなくてもよいということが分かります。しかしこれは大統領の決心を受けず、勝手に幕僚がベトナム戦争の決心をするということを許可するというわけではありません。あくまでも、国を統帥することが役割の君子が、戦闘を指揮することが役割の軍人に対して余計な戦闘に関する命令は出してくれるなということです。戦争を辞める、辞めないの戦略的、政治的決心は出してもらって構わないが、どう戦うかというような細かい戦闘の決心は、現場の軍人が行うことであるということです。つまりこれも、指揮の要訣やミッションコマンドと同じような流れがあります。将軍がいったん外に出れば君命も受けられないことがあるというのは、自主裁量の余地と似ているからです。しかし勘違いしてはならないのは、これは君子(指揮官)の企図の中で自主裁量を発揮するということであって、君子の企図から外れるような自主裁量は行ってはならないということです。これは例えば君子が、A国と戦うということを決心したのにもかかわらず、外に出た将軍がいきなりB国と戦うという指揮官の企図から外れる独断専行は行ってはならないということです。正しくは、A国と戦うが、A国との戦い方(戦術・戦闘)は君命も受けざるところありということです。

さて、いつも通り長くなってしまい申し訳ありません。どうしても文章を書こうとすると、いろいろなことを言いたいと感じてしまうのです。

これからも頑張って参りますので、本年、平成29年度、2017年のTeam IBISS Serverもどうぞよろしくお願い致します。

 

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